Claudeが散乱振幅を9ループ計算、物理学者が結果を検証
物理学者Matt von Hippel氏の挑戦に応え、AnthropicがFable 5.1とClaude Scienceで素粒子物理の9ループ振幅計算を実行。SLACのLance Dixon氏が独立検証しました。
要点
- 理論物理学者から科学ライターに転じたMatt von Hippel氏が、自身のブログで「AI企業への挑戦状」を出しました。学術研究者が使える程度の計算資源で、散乱振幅の未解決問題を解けるかを問う内容です。
- Anthropicの物理学者Liam Fitzpatrick氏とSiddharth Mishra-Sharma氏が、お題のうち「N=4超対称ヤン=ミルズ理論の9ループ振幅」をFable 5.1とClaude Scienceで計算しました。
- SLAC加速器研究所のLance Dixon教授が結果を検証しました。中国科学院のSong He氏のグループも、GPT-6の支援を受けて部分的に同じ計算を進めていました。
Anthropicの科学研究プラットフォーム「Claude Science」上で、Fable 5.1が専門家の手に余ると見られていた素粒子物理の計算を最後まで走り切りました。人間が与えた指示は「続けてください」程度だったといいます。前日に公開されたProject Swapの市場実験に続き、9月25日にAnthropicはこの経緯をvon Hippel氏本人の寄稿として公開しました。
挑戦状の中身 — 2つのお題とAnthropicが選んだ1つ
von Hippel氏は自分の古巣である散乱振幅の分野を引き合いに、次のように書いて挑戦状を出しました。AI企業が人を驚かせたい(あるいは怖がらせたい)なら、学術研究者が使える程度の計算資源でこの分野の大問題を解いてみせてほしい、と。お題は2つで、「N=8超重力理論の7ループ」か「N=4超対称ヤン=ミルズ理論の9ループ」でした。
氏が見たかったのは新しいアイデアの発見ではなく、計算の壁です。アイデアがどれだけ難しいかは見つかるまで分からない一方、計算なら「計算機と時間が足りないから無理」と専門家が見積もれます。その見積もりが外れていないかを確かめる狙いでした。
Anthropicが選んだのは後者の9ループです。8月末にFitzpatrick氏とMishra-Sharma氏が同氏に連絡し、お題の1つを解いたと伝えました。
散乱振幅とループ、bootstrap法の基礎
素粒子物理には「散乱振幅」と呼ばれる計算があります。粒子の運動量やエネルギーから、粒子同士がどのような確率で反応するかを予測する式です。この式が精密なほど、大型ハドロン衝突型加速器(LHC)などの実験結果と理論を照合しやすくなります。ずれが見つかれば、暗黒物質の正体や宇宙の物質と反物質の偏りといった謎に迫る手がかりになります。
散乱振幅を厳密に解くのは難しく、物理学者は「ループ」の数で計算を打ち切った近似を使います。ループは粒子同士の相互作用がどこまで複雑になってよいかの尺度です。ループが増えるほど答えは正確になり、計算量も跳ね上がります。多くの振幅は2ループまでしか求められておらず、3ループの例はわずかです。広く知られている最も精密な予測でも5ループにとどまります。
現実の理論ではなく「練習台」で腕を磨く
現実の物理で計算が難しい以上、研究者は新しい手法を「toy model(おもちゃの理論)」で試します。9ループの題材になったN=4超対称ヤン=ミルズ理論も、現実の物理そのものではありません。ヤン=ミルズ理論は電磁気力・強い力・弱い力を説明する理論の型です。そこに、すべての粒子に対となる粒子(超対称パートナー)が存在するという超対称性を組み込みます。
N=4とは、対となる粒子が1つでなく4つある状態です。現実離れしていますが、粒子同士の釣り合いのおかげで必要な変数の組み合わせが絞られ、かえって計算しやすくなります。この理論は暗黒物質の説明にも現実世界の何かの説明にも使われず、手法の訓練に専念する存在です。
bootstrap法は数独に似ている
この分野で使われてきたのが「bootstrap法」です。まず、答えがとりうる形を専用の記号で全部書き出します。次に、他の計算手法からの予測、答えが従うべき規則、答えが易しい関連問題とのつながりを順に当てはめ、選択肢を消していきます。最後に1つだけ全部の検算を通る状態を目指す点が、数独に似ています。検算を余らせておけば、計算ミスの有無も確かめられます。
この性質が、検証にも自動化にも向いていました。誰かが9ループの式を差し出したとき、検算で答え合わせできるからです。
Claudeはどう計算したか
Claude Scienceは、科学者が有料で使えるプラットフォームです。von Hippel氏はこれを「harness(実行基盤)」と説明しています。ClaudeのLLMに構造化されたルールとプロンプトを組み合わせ、より頑健で科学的に使いやすい挙動を引き出すプログラムのことです。
人間が出した指示は短いものだけ
- 1
解けそうな問題をClaudeに選ばせる
どの問題なら取り組めそうかを、先にClaude自身に尋ねています。
- 2
課題を1文で渡す
「6粒子(六角形)振幅を、平面N=4超対称ヤン=ミルズ理論の9ループで計算する」という課題だけを渡しました。
- 3
続行と報告間隔だけを指示する
「これから数時間離れるので、止めると言うまで作業を続けてください。4〜6時間おきに進捗を報告してください」という趣旨の指示を送り続けています。
Claudeが走らせた2つの解法
bootstrap法
候補を書き出して制約で絞る従来のbootstrapを、9ループまで直接実行しました。PythonとSymPy(数式処理ライブラリ)で書かれています。
form factor経由
form factorは、別の粒子を含む部分的な振幅です。同じループ数なら振幅より易しく、Dixon教授が8ループで使った道筋に近い方法です。
どちらの解法でもかかる費用の目安
1手法あたりの費用
約$1,000〜$2,000
どちらの解法でも。大半はClaudeを長時間動かす費用
bootstrapの古典計算
約$100
96基のCPUを1週間動かした計算量に相当
von Hippel氏は、96基のCPUを1週間動かす計算は10年前の自分には大がかりに感じられたが、相応の理由があれば今は十分手が届く、と書いています。
Dixon教授が検証して見えたこと
検証を担ったDixon教授の追記は、AIの成果を専門家がどう受け止めたかを具体的に語っています。9月1日、Fitzpatrick氏とMishra-Sharma氏から「Claudeが平面N=4超対称ヤン=ミルズの9ループMHV六粒子振幅を計算した」と告げられ、検証を依頼されました。
振幅の直接計算は壊れやすい
教授が驚いたのは、計算の規模よりも、直接計算に成功したことです。レシピのどこかに1つでも誤りがあれば、全体が失敗したスフレのように崩れます。しかも論文に書くには退屈すぎる細部が山ほどあり、Claudeはそのコードをゼロから組み上げる必要がありました。
教授自身は、直接計算は難しすぎると考えていました。2023年にAndy Liu氏と、form factorと「antipodal duality(対蹠双対性)」という奇妙な対称性を使って振幅を8ループまで求めています。それ以来、まずform factor、次に振幅で9ループに届くことを狙っていました。
検証は逆向きに進んだ
9ループの振幅が手に入れば、form factorに戻るのは比較的簡単です。教授もこの経路でおもに検証しました。つまり約2週間かけて検証していたのは、自分たちのチームが数年がかりで目指していた9ループのform factorそのものでした。
Claudeが答えを、教授らが以前に整えた形式と同じ書式で出してきたことにも触れています。教授は、Claudeが2019年と2023年の論文を「共著者を除けば、どの人間よりも理解している」と述べています。結果の全体は、過去のループ数と同じ形式で公開されています。
「全部検証できる」というスローガン
教授のチームは以前から、独自の小型トランスフォーマーモデルで高いループ数を予測する取り組みを進め、「機械が出した候補解を検証する道具は全部ある」と唱えていました。Claudeは別種のトランスフォーマーで、おそらく100万倍以上大きいだろうとのことです。スローガンを実行するときが来た、というのが教授の受け止めです。ちなみに本人は、機械に先を越されても気落ちはしなかったと明言しています。
そのうえで教授は、本当に考え込むのは、LLMが人間より先に新しい物理原理や洞察を出してくるときだと書いています。今回は既存のレシピを実行する作業が中心でした。
経緯 — 2023年から2026年9月まで
9ループ計算までの流れ
- 2023年Dixon教授とLiu氏が8ループ振幅を導出
9ループの前段にあたる結果です。
- 2026年3月AIは物理研究を「学生レベル」でこなす段階
小規模な作業に多くの人手の補助が必要で、ミスも多かったとvon Hippel氏は振り返っています。
- 2026年8月末Anthropicの2人が連絡
お題のうち9ループの問題を解いたと、von Hippel氏に伝えました。
- 2026年9月1日Dixon教授に検証を依頼
検証作業がこの日に始まりました。
- 数日後Song He氏のグループが並行して進めていたと判明
中国科学院のSong He氏が名乗り出ました。GPT-6の支援は一部の制約の計算に使い、全体の枠組みは人間が組んだとされています。
- 2026年9月25日Anthropicが寄稿を公開
Dixon教授の追記と、結果の全文へのリンクが付きます。
Dixon教授が寄稿の追記に書いたところでは、Song He氏のグループはsymbolと呼ばれる9ループ振幅の一部を計算していました。氏らの結果も寄稿から参照でき、Dixon教授の言葉では、2週間のうちに機械と、人間と機械の組み合わせの両方に先を越された状況です。
影響の大きさは立場で変わる
理論物理・計算科学系の研究者にとって
bootstrap法の古典計算部分が約100ドルで済んだ点は、研究予算の見積もりを書き換える材料になります。長時間の並列計算をAIエージェントに任せる運用が、実際の学術予算の範囲に収まる計算規模で成り立った事例です。ただし対象はN=4超対称ヤン=ミルズという練習台で、現実の理論の振幅で同じ費用感になるとは限りません。
Claude Codeで長時間の自律実行を設計するチームにとって
人間が与えたのは課題と運用ルールだけで、途中経過は細かく指定していません。von Hippel氏は、この種の面倒な計算を自分が1週間やれば確実に2週間になる、最初に何か間違えるからだ、と書いています。Claude Scienceのharnessは外部の協力者の手を借りずに完走しており、長時間のジョブを任せる自動化ワークフローを設計するときの参考になります。
研究の再現性や監査を重視する立場にとって
計算過程を後から追える設計はClaude Scienceの監査可能な成果物の仕組みと合わせて検討する価値があります。今回の結果はDixon教授が別ルートで検算できる形をとっていました。bootstrap法の「検算を余らせて誤りを検出する」性質が、AIの出力を人間が信頼するための基盤にもなっています。
Anthropicが科学分野でClaudeの実力を測った報告は初めてではありません。2026年6月にはOpus 4.7によるNMR予測が化学領域の第一報として出ました。Claude Science上の成果としては、9月に生体分子モデルの平均4倍高速化が報告されています。分野は違っても、専門家が答え合わせできる題材から実績を積み上げている点は同じです。
この結果をどう読むか
von Hippel氏は、今回の結果を「計算資源の壁を意外な方法で突破した」ものとは見ていません。Claudeは既知の手法を、人間が試した以上の計算資源で動かしたもので、Maple(Dixon教授の愛用ソフト)やMathematicaでなくPythonを使ったことと、ソフトウェア工学の作法が人間より良かったことが効いた可能性はあるが、超知能的とは言えない、という整理です。
それでも氏は、専門家が思うより手つかずの成果が残っているのが最大の収穫だと述べます。以前からコンピューターサイエンス出身者に「振幅の研究者はプログラマーを数人雇うだけでもっと進む」と言われてきたそうで、その人たちは正しかったことになる、とも書いています。「AIはミスが多すぎて使えない」と考えている読者への伝言として、氏は「この種の作業は今や確実にこなせる」と書いています。
一般化できるかは、氏自身も分かりません。現実の振幅計算は競争の激しい広い分野で、摘み取りやすい果実は少ないかもしれません。ただ「それを当てにはしていない」とも付け加え、妥当な予算でもう1ループ絞り出せても驚かない、との立場です。超知能の含意には明確な答えがなく、「自分が限界の位置を見誤っていたと分かっただけだ」で締めています。
今回の題材は、答えを人間が検算できる分野と手法が先に整っていた点でも恵まれていました。ただし氏は「AIに向いた問題だっただけではなく、技術自体が向上した」と見ています。物事は確実に速く動いているように見える、という感触です。Song He氏のグループがほぼ同時期に大部分へ到達した点も、技術向上説と矛盾しません。Anthropicの同ページには、Matthew Schwartz教授が「Claude向きの問題」を見つけて厳密計算用ツールキットBootLoopsを作った別の寄稿も並んでいます。題材選びが成果を左右する点は、そちらでも主題です。
まとめ
今回の計算は、既知の手法を長時間走らせれば届く距離にあった成果を、AIが人手を介さず完走した事例です。費用の目安と指示の出し方は他の長時間ジョブにも参考になりますが、検算手段が整った題材だったことを割り引いて読むのが無難です。