Claude Media
Claudeが散乱振幅を9ループ計算、物理学者が結果を検証

Claudeが散乱振幅を9ループ計算、物理学者が結果を検証

物理学者Matt von Hippel氏の挑戦に応え、AnthropicがFable 5.1とClaude Scienceで素粒子物理の9ループ振幅計算を実行。SLACのLance Dixon氏が独立検証しました。

要点

  • 理論物理学者からサイエンスライターに転じたMatt von Hippel氏が、自身のブログで「AI企業への挑戦状」を出しました。学術研究者が手にできる程度の計算資源で、素粒子物理の未解決問題を解けるか、という内容です。
  • Anthropicの物理学者Liam Fitzpatrick氏とSiddharth Mishra-Sharma氏が、この挑戦のうち「N=4超対称ヤン=ミルズ理論の9ループ振幅」を選び、Fable 5.1とClaude Scienceで計算しました。
  • Claudeは6粒子(六角形)振幅を、bootstrap法(既知の制約を積み重ねて答えを絞り込む手法)と、form factor(部分的な振幅で計算が易しい関連量)経由の2通りで独立に求めました。
  • 計算コストはどちらの解法でもエンドユーザー換算でおよそ1,000〜2,000ドル。うちbootstrap法の古典計算(Python/SymPy)部分は約100ドルで、96基のCPUを1週間動かした計算量に相当します。
  • SLAC加速器研究所のLance Dixon教授が結果を独立に検証しました。ほぼ同時期に中国科学院のSong He氏のグループも、GPT-6の支援を借りて部分的に同じ計算を進めていたことが分かっていますが、Anthropicのようなほぼ人手を介さない一括実行ではなく、あくまで部分的な支援だったとされています。

Anthropicの科学研究プラットフォーム「Claude Science」上でFable 5.1が、専門家が「計算資源が足りず解けない」と見ていた素粒子物理の問題に挑みました。ほぼ人手を介さずに、最後まで解き切ったという報告です。前日に公開されたProject Swapの市場実験に続き、9月25日にAnthropicはこの経緯をvon Hippel氏本人の寄稿記事として公開しました。

Claude Scienceの利用者・研究フローはどう変わるか

影響の大きさは、扱っている分野と立場で大きく分かれます。

理論物理・計算科学系の研究者にとって

今回の計算のうちbootstrap法の部分はPythonとSymPy(数式処理ライブラリ)を使い、費用の約100ドル分、96基のCPUを1週間動かすのに相当する計算量でした。長時間の並列計算をAIエージェントに任せられることを、実際の学術予算の範囲内で示した事例です。同種の計算量を必要とする研究であれば、相応の理由があるかぎり十分に手が届く予算感だといえそうです。

Claude Codeで長時間の自律実行を設計するチームにとって

Fitzpatrick氏とMishra-Sharma氏がClaudeに送った指示は、途中経過の細かい指定ではありませんでした。「Claudeがどの問題なら解けそうか」を先に本人に尋ねたうえで、6粒子(六角形)振幅を9ループで計算するという課題だけを渡し、あとは「これから何時間か離れるので、止めると言うまで作業を続けてください。4〜6時間おきに進捗を報告してください」という趣旨の指示を送り続けています。長時間に及ぶ計算を逐次介入なしで完走させるプロンプト設計の実例として、そうしたジョブを任せる自動化ワークフローの参考になります。

研究予算を管理する立場にとって

bootstrap・form factorのどちらの解法でも、エンドユーザー換算のコストはおよそ1,000〜2,000ドル規模です。大半はClaudeを長時間動かす費用で、bootstrap法の古典計算(PythonとSymPy)部分はそのうち約100ドル、96基のCPUを1週間動かした計算量にあたります。研究の再現性や監査可能性を重視するなら、Claude Scienceの監査可能な成果物の仕組みで計算過程を残す設計と合わせて検討する価値があります。

背景・文脈

散乱振幅とループ数とは何か

素粒子物理には「散乱振幅」と呼ばれる計算があります。粒子の運動量やエネルギーから、粒子同士がどのような確率で反応するかを予測する式です。この式が正確であるほど、大型ハドロン衝突型加速器(LHC)などの実験結果と理論を照合しやすくなり、暗黒物質の正体のような未解決問題に迫る手がかりになります。

散乱振幅は厳密に解くのが難しく、物理学者は通常「ループ」と呼ばれる単位で計算を打ち切った近似値を使います。ループ数が増えるほど答えは正確になりますが、計算量も跳ね上がります。実際の素粒子物理の多くの振幅は2ループまでしか計算されておらず、3ループの例はわずかで、広く知られている最も精密な予測でも5ループどまりです。

散乱振幅の9ループがなぜ難しいのか — bootstrap法とN=4超対称ヤン=ミルズ

von Hippel氏が挑戦の題材に選んだのは「N=4超対称ヤン=ミルズ理論」という、現実の物理法則そのものではなく、計算手法を鍛えるための理論モデルです。ヤン=ミルズ理論は電磁気力・強い力・弱い力を説明する理論の型です。そこに「超対称性」(すべての粒子に対となる粒子が存在するという仮説)を組み込みます。N=4とは、対となる粒子が1つではなく4つある状態を指し、超対称性を最大限に効かせた形です。こうすると変数の組み合わせが絞り込まれ、かえって計算しやすくなります。

この分野で使われてきたのが「bootstrap法」という手法です。あらゆる可能性を書き出したうえで、他の計算手法からの予測や、答えが満たすべきルールを次々と当てはめて選択肢を消していきます。数独のように、最後に1つの答えだけが全ての制約を満たす状態を目指す手法です。

von Hippel氏自身は博士課程で3ループの計算に携わり、7ループまで見届けたところで力尽きたと振り返っています。SLAC加速器研究所のLance Dixon教授はこの分野の草分けの一人で、数年前に8ループの結果にたどり着いていました。ただしその道筋は直接的なbootstrap計算ではありません。Andy Liu氏との共同研究で2023年に見つけた「antipodal duality(対蹠双対性)」という性質を使い、計算が易しい「form factor」という関連量を経由する間接的な方法でした。

Anthropicが科学研究分野でClaudeの実力を測った報告は今回が初めてではありません。2026年6月にはOpus 4.7によるNMR予測がClaude Science登場前の化学領域第一報として公開され、Claude Science上の成果としては9月の生体分子モデルの平均4倍高速化が報告されています。分野は異なりますが、専門家の設計した検証手段で答え合わせができる領域から実績を積み上げている点は共通しています。

2023年から2026年9月までの経緯

時期できごと
2023年できごとLance Dixon教授とAndy Liu氏が、form factorとantipodal dualityを使い8ループ振幅を導出
2026年3月できごとvon Hippel氏いわく、当時のAIは物理研究を「学生レベル」でこなす段階(小規模タスクに人手の介入が多数必要)
2026年8月末できごとFitzpatrick氏とMishra-Sharma氏がvon Hippel氏に連絡し、挑戦のうち9ループ問題を解いたと伝える
2026年9月1日できごと計算結果をLance Dixon教授に伝え、検証を依頼
2026年9月(検証期間中)できごと中国科学院のSong He氏のグループが、GPT-6の支援を借りて振幅の一部(symbol)を独自に計算していたことが判明
2026年9月25日できごとAnthropicがvon Hippel氏の寄稿として経緯を公開

検証の裏側 — Lance Dixon氏が見たClaudeの理解度

Dixon教授は寄稿の追記部分でこの経緯を明かしています。9月1日、Fitzpatrick氏とMishra-Sharma氏から「Claudeが平面N=4超対称ヤン=ミルズの9ループMHV六粒子振幅を計算した」と告げられ、検証を依頼されました。振幅を直接計算する手順の脆さ(計算の途中で小さなミスが1つでもあれば全体が崩れる)を踏まえ、Claudeがゼロからコードを書き上げて最後まで到達した点を評価しています。Dixon教授は、Claudeが2019年と2023年の自分たちの論文を「共著者を除けば、他のどの人間よりも理解している」と述べています。

Dixon教授のチームは以前から、独自開発の小型トランスフォーマーモデルでより高いループ数の結果を予測する研究を進めており、「機械が出した候補解を検証する手段はすべて揃っている」というスローガンを掲げていたといいます。Claudeは自分たちのカスタムモデルとは別種のトランスフォーマーで、大きさは100万倍を超えるだろうとしたうえで、今回はそのスローガンを実際に行使した形だと振り返っています。

検証を終えた後の役割分担についても言及があります。Lance Dixon教授とSong He氏、それぞれの共同研究者は今後、結果を論文として発表し、他の研究者向けに解説する作業を担います。Claude自身の役割は「ひとまずここで終わり」というのが、この段階でのvon Hippel氏の見立てです。

寄稿の性質 — 利益相反の開示

この結果をどう読むべきか

von Hippel氏は寄稿の中で、今回の結果を「計算資源の壁を意外な方法で突破した」ものではなく、「人間も原理的にはできたはずのことを、より多くの計算資源とほぼ自動の運用でやり切った」ものだと位置づけています。それでも「専門家が実現可能と踏んでいたより、世の中には手つかずの成果がまだ多く残っている」というのが本人の受け止めです。

一般化できるかは、von Hippel氏自身も分からないとしています。対象になるのは、超対称ヤン=ミルズ以外の、より現実の物理に近い振幅計算です。現実の振幅計算はより競争の激しい広い分野であり、今回のように成果が出やすい「摘み取りやすい果実」は少ないかもしれないとしつつも、氏は「それを当てにはしていない」とも付け加えており、悲観一辺倒の見立てではありません。実際、現実の振幅計算の側についても「妥当な予算でもう1ループ絞り出せたとしても驚かない」と述べています。超知能の含意について明確な答えが得られたわけでもなく、「AIが計算能力の限界をどこまで押し広げられるか知りたかったが、自分がその限界の位置を見誤っていたと分かっただけだ」という言葉で寄稿を締めくくっています。

今回効いたのは計算能力そのものより、「機械が出した答えを人間側が検証できる」体制が先に整っていた分野を選んだことです。Song He氏のグループがほぼ同時に大部分に到達した事実も、突破の要因が特定モデルの固有性より題材の選び方にあった可能性を示唆しています。

まとめ

  • Anthropicの物理学者2名が、von Hippel氏の挑戦に応じ、Fable 5.1とClaude Science上でN=4超対称ヤン=ミルズ理論の9ループ振幅を計算しました
  • bootstrap法とform factor経由の別解法の2通りで独立に結果を導き(古典計算部分は約100ドル・96CPU×1週間相当)、SLACのLance Dixon教授が検証しました
  • 中国科学院のSong He氏のグループもGPT-6の支援を借りて並行して一部を計算しており、単独の成果ではない点も併せて報じられています
  • 長時間の並列計算をAIに任せる運用面、研究コストの内訳、そして「一般化できるかは未知数」という当事者自身の留保、この3点は切り分けて読むと整理しやすくなります
この記事を共有:XはてブLinkedIn